日経・清水氏のコラムに思う

日経 NET EYE 清水氏のはやぶさミッションに関するコラムについて.

はやぶさネタはまだ自分の中で整理がついてないので抑えるようにしてたんだけど,このコラムについては一言書いておきたいので.宇宙開発に関しては全くの素人だが,素人なりに考えさせられるものがある記事だった.



これは「プロの視点」というタイトルのコラムで,今回の記事は「研究の失敗に寛容な風土はできるか」というもの.

この記事が出た後,2chはやぶさ本スレ (このスレは学問板の中でも議論のレベルがとんでもなく高い) でも批判意見が続出した.同様の鋭い論評をジャーナリストの松浦氏が blog「松浦晋也の L/D」 (以下「L/D」) で公開し,そこにまたコメントやトラックバックが多数集結している.まあ私の言いたいことはことごとく松浦氏や他の人が代弁してくれているので,今更という感じもするが,声は多い方がいいかなってことで.



結論からいうと,清水氏のコラムはこれまでの科学報道特有の悪癖をわかりやすい形で象徴していると思う (「これまでの」と書いたのは,ここ 1 ヵ月で報道論調はずいぶん変わってきたなと思うからだ).悪癖というのは「成功/失敗の二元論」と「不十分な調査に基づいた認識の甘さ」だ.

日本の小惑星探査機「はやぶさ」による小惑星イトカワの探査ほど、成功したのか、失敗したのか分からないプロジェクトはない。イトカワに着陸成功と言ったかと思えば、小惑星の試料採取は失敗の可能性ありと言い、さらに地球への帰還は姿勢制御エンジンのトラブルで3年延期と発表、本当に戻ってくるのか定かでないままだ。
L/D にもあるが,「成功/失敗の二元論」の呪縛の見事な例だ.惑星探査に限らず,大きなプロジェクトというのは複数の要素技術が絡み合っている.個々の要素のそれぞれに成功/失敗がある.はやぶさの例で言えばイオンエンジン長時間稼働やイトカワへの着陸は成功の部類だし,ミネルバのロストやプロジェクタイル発射時の安全モード移行は (運の問題はあるにせよ) 失敗の部類だ.各要素ごとの目標基準はミッション開始時から明確に示されている.ちなみに「部類」と書いたのは,成功/失敗の判断は binary でなく連続的なものであり,しかも相対的なものだからだ.イトカワへの不時着などはその好例だ.まあそもそも,プロジェクトがまだ半分しか終わっていないのに,全体が成功だとか失敗だとか論じられるはずがない.


成功も失敗もあやふやにして逃げを打つようなプロジェクトの進め方は、科学技術への失敗に寛容な風土を築くという点ではマイナスではないか。

失敗を成功と言い繕っていないか
これはよく目にする意見ではあるが,一連の記者会見の記録を読む限り,JAXA の中の人は失敗は失敗としてきちんと認識しているように思う.うまくいかなかった部分は冷静に把握し,マスコミにも迅速にそれを伝えている.言い繕っているように見えるとすれば,それは受け手の側に各要素を要素として評価する土壌が足りないせいだと思う.

イトカワ到着で一応目標を達成と言っているが、飛行だけが目標と言うのではあまりに情けない。
飛行「だけ」が目標というのは,プロのライタとして勉強不足過ぎないか? 打ち上げ時から何度も,複数の要素目標が明言されている.はやぶさの公式サイトの表紙にもミッション達成表が載っている.

安い開発費では目標を達成できないというのであれば、失敗しないだけの開発資金を要求すればよかったではないか。
要求すれば開発資金が降って来るなんて世界がどこにあるというのか.マリー・アントワネットもびっくりだ.まあ,仮に資金が降って来るとしてだ,「失敗しないだけの開発資金」とはいくらなのか.見積り不可能じゃないのか.じゃあさらに百歩譲って 3 兆円と見積もられたとしよう (これはりそな銀行に投入された公的資金の額.現行のはやぶさ 230 機分).失敗しないために税金から 3 兆円かけさせてくださいと JAXA が発表したら,真っ先に叩くのはあなた方マスコミではないのか.

そういう矛盾を孕んだ無責任な発言という印象を受ける.

科学技術の研究開発には新発見やイノベーションにつながる発明、そして一つ一つの技術を組み合わせ、全体システムをつくりあげるような技術開発プロジェクトがある。前者は未知の世界の挑戦という性格があり、失敗なしに成果を挙げるのは至難の技である。一方、後者は着実にシステムをつくることが前提であり、出来上がったシステムが動かなかったり、目標を達成できなかったりすれば失敗であり、無駄な研究開発ということにもなる。



 つまり、前者では失敗は許容され、後者では失敗は許されないということになる。はやぶさは後者になるが、研究者が意図しているかどうかは別にして成否のあやふやな発表をみる限り、失敗の責任逃ればかりが前面に出ているような印象を与える。
はやぶさは後者になるが」という認識には驚いた.ハード,ソフト,どちらをとっても新規開拓された技術の実証試験がこのミッションには詰まっている.仮に出来合いの (川口プロマネ曰く「off-the-shelf の」) 技術の組み合わせ衛星であったとしても,イトカワに向かうというだけで十二分に未知への挑戦である.

ついでに言えば,前者であっても「失敗が許容される」なんて甘いもんではない.

失敗してもそれを率直に認めずに取り繕ったり、失敗を恐れて低い目標を掲げるようになったりしては科学技術立国もありえない。見境なく研究費をばらまくような研究バブルは厳に戒めなければならないし、研究の管理や成果の評価はしっかりしなければならない。だが、志の高い研究には失敗しても研究費を惜しげもなく注ぎ込む度量も必要だ。総合科学技術会議は研究の善し悪しを見抜く力が一層求められる。
この結論は同意.しかしその例として引合に出して来たはやぶさミッションへの認識が低すぎるので,全体として見当違いな論調になってしまっている.



H2A 1 号機打ち上げの際に「どうなったら成功と言えるのでしょうか」と記者が質問したというエピソードを思い出す.成功か失敗かにすべてを押し込めようとする姿勢は思考停止のようにも見える.現実はそんな単純なものじゃない.

それから「リレーって何ですか」というかつての珍質問ほどではないにしても,「ハイテクと社会」の担当記者で東工大院出身の日経サイエンス元編集長にしては,あまりに事実誤認が多すぎる.速報記事でなく論説記事なんだから,調べる時間くらいはあるはずだ.

そもそもなんでそれほど成功か失敗かにこだわるのか.ジャーナリズムの本質は事実をありのままに伝えることだ.極論を言えば,到着した,着陸した,帰還が延期になった,そういう事実だけを淡々と伝えるのが本質で,それが成功とみなされるか失敗とみなされるかということを含め,一切の評価は意見であって事実ではない.論文で言えば「成功か失敗か」は考察の対象であって実験結果ではないのだ.そしてさらに極論すれば,そういう評価は当事者本人を含めた専門家,読者,そして清水氏のような論説委員がそれぞれ自ら下すべきものであって,JAXA に「成功か失敗かはっきりしろ」というのはまるで筋違いだと思う.そして清水氏にはぜひもう少し背景をきちんと調査・把握したうえで,成功か失敗かなんていう単純な評価軸でなく,深い論説を展開して頂ければと思うのである.



ついでに同じ文脈で話題になっている清水氏の別記事「アシモに月を探検させよう」についても触れておきたい.これも,結論は正論なのだが論拠が甘すぎるという同じパターンのように思う.

宇宙開発では事故のリスクのある有人活動より無人で進める価値のある計画も多いはずだ。米ロがたどった道をなぞるより、日本のロボット技術の進展を考えて、特色のある無人活動の将来像をまず描き、進める方が賢明とも言える。故障や燃料切れの衛星の回収、不具合のある機器の交換、燃料補給など、ロボットや無人システムで挑戦してもよさそうな課題・活動はある。

だれもが思いつく有人活動でしか、魅力を語ることができないのは宇宙関係者の発想の乏しさを示すものでしかない。
ロボットで無人探査を推進せよという意見はまったく同意見だ.無人探査はロボティクスに強い日本のお家芸にすべきだと前から思っている.

だが,JAXA が有人ばかりを志向しているというのは完全に誤解で,むしろ JAXA はこれまで無人寄りであった.逆に有人ミッションは NASAスペースシャトルに乗せてもらっている程度だ.

ホンダが開発した「アシモ」のような人型ロボットで月や火星を探検させるのもいい。

日本ではアシモのような人型ロボットの人気が高く、タレント並みのもてはやされ方をしている。宇宙服を着た飛行士の姿をモデルにつくられた人型ロボットが宇宙で活躍しても違和感はないはずだ。
アシモが月面を歩く光景が絵として面白いのはわかるが,なぜ人型にこだわるのか.二足歩行ロボットは地球重力を補償するようにがちがちにチューニングされているから,行ったこともない天体上での歩行に合わせるのは至難の技だ.そもそも人型ロボットは人間のいる環境で動きやすいように,また人間とのインタラクションをスムーズにするために,人型をしているのであって,人間のいない宇宙 (しかも大変な不整地!!) なんだからキャタピラかなんかで移動すればいい.

また,宇宙は民生品のほとんど動かない劣悪な環境だということを忘れないで頂きたい.太陽側は 100℃以上,陰側は零下数十℃,大量の宇宙線が降り注ぐ環境下で動くには,現在の二足歩行ロボットの延長では厳しすぎる.



そして,はやぶさをはじめとする探査機達はみな紛れもない自律ロボットだということを最後に言いたい.人型でないとロボットでないと思っている人はけっこう多いのだが,センサとアクチュエータを持ち,自律的に外界と相互作用すればもうそれはロボットだと私は考える.たくさんの自律ロボットがとっくの昔から,既に太陽系各地で探検をしているのだ.



結局,的川先生言うところの「(報道における) 現場と上の温度差」が如実に現れた例といえる.私自身ははやぶさミッション擁護寄りなので,過度に批判的になっている部分はあるかも知れないが,それでも事実誤認と見当違いの議論は,「プロの視点」記事としてはふさわしくないと考えている.どちらの記事も結論はまあ正論ではあるのだから,その論拠はもう少ししっかりしてほしいと思う次第だ.